(6)ヒーリング能力(霊能力)を開発するための訓練方法と、霊能力の発現

霊能力発現のメカニズム

「霊体」から「肉体」へ向けて、一時的に大量の霊的エネルギーが流れると、極端な「霊主肉従」の状態(霊>肉)になります。すると「霊体」に備わっていた能力が、肉体次元においても発現するようになります。一方、肉体を徹底して弱らせ、相対的に「霊体」の力を高めることによっても「霊主肉従」の状態がつくられ、霊能力を発現できるようになります。

前者が霊能力開発の正攻法で、その代表的なものが「瞑想」です。後者の方法が、これまで多くの宗教で行われてきた“肉体行(断食・滝行・断睡行など)”です。

瞑想・精神統一が、霊能力開発の王道

古来、多くの宗教や神秘主義では、瞑想や精神統一が重要視されてきました。それは瞑想や精神統一が、霊能力を開発するのに有力な手段であることが経験上知られていたからです。スピリチュアリズムにおいて霊能力を開発するための方法として勧めるのも、この瞑想・精神統一です。シルバーバーチは――「1日1回、少しの時間を割いて精神を統一し、霊的な力を表面に出す鍛錬をすべきだと思います」(霊的新時代の到来・p235)と述べています。

瞑想の目的はどこまでも、物質に支配された日常意識を、非日常の霊的意識へと引き上げ高めることにあります。日常意識とは別の霊的意識状態に入って、霊的世界の霊気と触れ合うことが目的です。それによって“霊的エネルギー”が取り入れられるようになるのです。

瞑想は「霊の心」と「霊体」に霊的エネルギーをもたらす優れた方法の一つであり、霊能力開発の王道と言っても過言ではありません。瞑想は霊能力開発の訓練法として、最も摂理に一致した自然で無理のない方法です。

瞑想が高い霊的次元において行われるとき、“霊の大海”に充満している霊的エネルギーが「霊」に取り入れられます。その霊的エネルギーは「霊の心」に流れ込み、そこを満たして活性化します。さらに、霊的エネルギーはステップダウンして「霊体」に流れ込み、そこを活性化します。こうして「肉体」に十分な“霊的エネルギー”がもたらされる条件が整うことになるのです。

どのような瞑想法・精神統一法を選んだらよいのか?

地上には瞑想や精神統一に関するさまざまな学説・方法・技術があります。それらが目指しているのは、いずれも身体レベルにおいて「霊主肉従」の状態をつくり出すことです。物質に支配された状態を抜け出て、霊的に支配された状態へと高めることが目的です。

では、そうした数ある瞑想法の中から、どれを選んだらよいのでしょうか。結論を言えば、自分に合ったものならどのような瞑想法でもかまわない、ということです瞑想法の中には「霊主肉従」という肝心な目的に反するようなものもありますから、そうした方法は当然、排除します)

どのような瞑想法を選ぶかについて、それほど神経質になる必要はありません。数種類の瞑想法を試してみて、自分に一番合っていると思うものを選択すればよいのです。また、途中で瞑想法を替えてもかまいません。現在では、「自分たちの瞑想法こそが最も優れている」「霊能力の開発に一番効果的」といった宣伝をよく目にしますが、瞑想法それ自体に大きな違いはありません。ごく常識的な判断で、オーソドックスなものを選べばよいのです。霊能力の開発を目的とする場合には、どのような瞑想法を選択するかということより、瞑想を続けられるかどうかの方が重要なのです。

霊能力開発の“パラドックス”

霊能力を獲得したいと思えば思うほど、霊能力は遠ざかる

スピリチュアリズムにおける霊能力開発の主な方法は「瞑想」です。瞑想が「霊能力開発訓練」の中心です。とは言っても本来、瞑想は霊能力を開発するために実践するものではありません。それは自らの霊的意識を引き上げ、より神に近づこうとする努力であり、霊的活動の一つなのです。その意味からすれば、霊能力開発のための訓練として瞑想をすることは“邪道”と言えます。事実、霊能力開発の訓練として瞑想に没頭してきた多くの修行者・信仰者が、瞑想のゆえにエゴ的な心を増幅させ、野心を募らせ、人生を棒に振ることになってしまいました。瞑想に臨むに際しては、“霊能力を獲得したい”といった思いがあってはなりません。

霊能力は、高い霊的意識を維持するために瞑想を日課としてきた人に、ある日突然、出現するようになるものです。一方、“霊能力を獲得したい”との思いから必死に瞑想をしてきた人の場合には、邪心が霊能力の発現を妨げ、なかなか開花しません。「霊能力など、あってもなくてもどちらでもいい。そんなことより、自分の心を高める努力の方が大切である」との姿勢を持っている人ほど、結果的に霊能力が身につくようになるのです。

この事実は、「霊能力を発現させたいと思うなら、霊能力を得ようと思わない方がいい」ということを意味します。まさに“パラドックス(逆説)”になってしまいますが、霊能力を獲得するためには、霊能力を得ようとすることを諦めるか、忘れてしまうことです。霊能力を身につけようと考えるのではなく、霊的意識を高め、平安と喜びに満ちた心境・澄みきった心境を維持したいと願うことなのです。

霊能力を開発するためには、どのような修行をすべきかについて突き詰めて考えると、「霊能力の獲得を諦めるのがよい」という逆説的な結論に至ります。しかし、これが真実なのです。霊能力が欲しいと考えるのではなく、人間としてもっと霊的成長をしたい、崇高で価値ある人生を送りたいと思うべきなのです。結局、きわめて当たり前の生き方に落ち着いてしまいました。より高い霊的心境を求めて瞑想に励むことによって、「霊能力獲得のための瞑想」から「霊的成長のための瞑想」へと、瞑想自体がレベルアップすることになるのです。

自然発生する「サイキック能力」

高い心境を求める瞑想は、人間の意識(魂)を物質的混沌から抜け出させ、“霊的静寂”の中へと導いてくれます。瞑想によって霊的静寂の雰囲気を体得した者は、そこに最高の安らぎがあることを実感するようになります。瞑想を通して霊的意識が深まるにともない、身体的感覚がなくなり、自分が宇宙の中に溶け込んでいくような体験をすることもあります。「心の次元のサイキック現象」が発生するようになるのです。一度でもこうした体験をすると、瞑想それ自体が大きな喜びとなり、霊能力など、もはやどうでもいいと思うようになります。

するといつの間にか「霊能力(身体次元のサイキック能力)」が身についていることに気がつくようになります。知らないうちに“霊的感性”が敏感になっていることを自覚するようになります。理屈抜きに霊的感性が働くようになっているのです。ある人は「霊視能力」が発揮されるようになり、周りの人間の肉体次元のオーラ・半物質次元のオーラが薄ぼんやりと見えるようになります。また、他人の霊体やチャクラが認識できるようになることもありますこの段階ではまだサイキックレベルであり、霊界の霊の姿を見ることはできません。その後、霊的に向上してスピリチュアルレベルにまで至ると、霊界の人々の助けを借りて、幽界の様子や霊の姿を認識することができるようになります)。人によっては「ヒーリング能力」が発現するようになります。家族の身体に触れると病気が治ることに気がつくようになるのです。