ヒーラーの声

“親戚との付き合いは辛いなあ~”

私たちスピリチュアリストが変人に見られるのは宿命

No.079

スピリチュアリストとしての私の人生は、すでに30年以上に及びます。その間、常に霊的真理を学び、霊的視野から地上世界の問題を見つめてきたため、「霊中心」の考え方が当たり前になっています。

私は、この世の宗教は霊的真理を知らない人間にとっての“オモチャ”のような存在と考え、寛容な目で眺めるようにしています。かつての自分も同じような立場にあったことを思うと、上から見下ろすようなことはできません。「スピリチュアリズムに出会えてよかった」と、自分の幸運を感謝するだけです。そして同時に、目の前の人が一刻も早く真理を受け入れられるようになってほしいと祈ります。

とは言っても、親戚一同が集まる結婚式や法事に出ると、自分と周りの人々とのギャップに驚き、衝撃を受け、スピリチュアリストという特別な立場にいることを再認識することになります。

スピリチュアリズムについて何も知らない人たちと長時間にわたって同席することは、とても疲れます。ストレスや苦痛を感じます。全く話の合わない人たちと一緒に食事をすることは、本当に大変です。次々に「今、何しているの?」と聞いてきます。そのうち「一杯どうかね」と、ビールを勧められることになります。「ありがとうございます。でもビールは飲めないもので」などと言おうものなら、「じゃあ日本酒か、それとも焼酎か」などと言われてしまいます。

また、肉に箸をつけないと、「どうして肉を食べないの」と聞いてきます。なかには「肉を食べないと健康になれないよ」などと言う人もいます。隣にいる小さい子供が、「私、お肉が大好きなの。もっと食べたい。おばちゃん、どうしてお肉が嫌いなの?」 と聞いてくることもあります。そこで「魚は大好物よ。肉は自然に体が受けつけなくなったの。それで長い間、食べていないの」と答えます。

もっと困るのが周りの人たちとの会話です。仕事のことや家族のことや子供のことはまだしも、スポーツや芸能界のことなど、ほとんど関心も知識もなく、会話についていくことができません。周りの人々との間に共通の話題がないことを改めて実感します。スピリチュアリストとして歩むうちに、いつの間にかこの世の人々とは全く違ってしまっていることを再認識することになります。

仕方なく部屋の片隅で顔だけニコニコしていると、「○○ちゃん、こっちにおいでよ」などと大声で呼び戻されます。時に“登山が趣味”という人がいるとホッとします。登山を趣味にしている私にとって、山のことなら話題に事欠きません。やっと話がかみ合うようになります。

すると、それまで寡黙だった私が突然しゃべり出すのを見て、みんな耳を傾け、次々に話しかけてきます。が、話題が変わると、またついていけなくなります。

正直に言って、親族が集まる冠婚葬祭は、私にとって苦痛です。サークルのメンバーに聞いてみると、同じような答えが返ってきます。外部の人々とのあまりにも大きなギャップに直面し、唖然とするようです。周りの人から変人に見られることもあります。「何をしているのか?」と聞かれても、短時間にスピリチュアリズムについて正しく説明することはできません。

たいていのスピリチュアリストが、この世の人々との付き合いに困っているのではないでしょうか。

今はまだ、スピリチュアリストが少数派である以上、周りの人々から変人に見られるのは、仕方がないことと割り切っています。変人に見られるのは、スピリチュアリストにとって避けられない宿命と思っています。

それは、別に悲しいことではありません。いつの間にか世の中の人とは違っている自分を発見することは、むしろ嬉しく、誇らしいことです。自分の中に“スピリチュアリズム(霊的真理)”が確実に定着しているのを実感して、喜びが湧いてきます。

(杉野)